2012.02.01
視点 廃止は自明ではなかったのか(下)
日本障害者協議会常務理事 藤井 克徳
「自立支援法は廃止でなく一部改正で」、障害者総合福祉法を模索する一方でこうした論調が台頭している。自立支援法を推進してきた旧与党が「一部改正」の立場に立つのは驚く話ではない(自民党と公明党をひと括りにするのは正確ではないかもしれないが)。厚労省についても、骨格提言を取りまとめる過程でのコメントなどを併せみれば予想がつく動きだ。しかし、一部とは
言え民主党にみられる同調の動きは解せない。
問題は、民主党の中になぜこのような論調が生まれるのかということである。返ってきた答をまとめるとこうなる。「ねじれ国会にあって、法律案を通すためには野党の同意が絶対的な条件。すべて壊れてしまうよりはトーンダウンしてでも歩み寄りが大事」と。さらに、「廃止では同意が得られず、形としては「一部改正」でいくが意味は同じ」と続く。この部分だけを取り上げればそれなりの論理に聞こえる。
声を大にして言いたい。それは違うと。何よりも廃止を公言したのは民主党自身であることを忘れては困る。国政選挙時のマニフェストに始まって、基本合意文書の締結、総理や厚労大臣の国会での演説や答弁、推進会議主要部分の閣議決定等々、政権政党である民主党が関与しての「廃止宣言」は、枚挙に暇がない。「立法技術上は一部改正も廃止も同じ意味」の論法も無理が
ある。霞が関や永田町では通用するかもしれないが、改正と廃止がイコールで結ばれるなどは、市民感覚では詭弁としか聞こえない。
むろん、重要なのは中味であり、壊れるなどがあってはならない。かと言って、手順や手続きがどうでもいいことにはならない。廃止をくぐるのとそうでないのとでは、内容面への影響だけではなく、障害当事者による新法のとらえ方が全く異なろう。本質的な問題なのである。もう一つ言いたいのが民主党の軸足である。政局を乗り切るには、与野党間の交渉力も重要だが、それ以上に廃止宣言に拍手喝采を送った国民の思いとエネルギーを信頼することではないか。徹底して、軸足を国民の側に置いてほしい。
旧与党にも言いたい。ふり返れば、小泉政権の絶頂期に誕生したのが自立支援法であった。制度の根幹に競争原理や「自己責任」論などの考え方が深く宿っていることは否定できまい。こうした考え方が障害者政策に似つかわしくないとする懸念は、当時の与党議員からも少なくなかった。懸念が的中したからこそ、修復に継ぐ修復を重ねなければならなかったに違いない。一般的に考えて、根幹に由来する問題は致命的な欠陥と同意義であり、修復という手法では限界があるように思う。たしかに「つなぎ法」で改良が加えられたのは事実であり、その延長での「一部改正」とする政策手法もあり得るのかもしれない。でも、軟弱な土台の楼閣が永久に修復を重ねなければならないのたとえではないが、いま問われているのは土台そのもののあり方なのだ。
加えて、自立支援法の制度設計時後に登場した障害者権利条約の存在を認識すべきだ。批准が視野に入りつつあるこの国にあって、国際仕様でのチェックは立法府の責任と言えよう。そして、何よりも骨格提言に真摯に向き合ってほしい。障害者政策をめぐる論議であれほどのメンバーがまとまることは奇跡に近い。限界集落ならぬ「限界生活」にある障害のある人たちの厳しい実態に思いを馳せればこその帰結と言える。「55人の総意」は軽くはないはずだ。今国会を足掛け9年におよぶ自立支援法問題の終着駅としようではないか。
2012年「すべての人の社会」2月号「視点」