2010.04.19
障害者自立支援法をめぐる違憲訴訟は、全国で和解が相次いでいる。国が支援法廃止を確約したからだ。取って代わる障害福祉法制も、国のご都合主義で障害者の権利と尊厳を脅かすようでは困る。
四年前に施行された障害者自立支援法は、国の財政難を背景に福祉サービス利用料の一割負担を求めた。だが、障害が重いほど負担がのしかかる仕組みは、とりわけ低所得層の反発を買った。その怒りと悲しみは二〇〇八年十月以降、全国十四地裁での違憲訴訟にまで発展した。
障害者が住み慣れたまちで、学んだり、働いたりしながら安心して暮らす。そのためには介護や訓練、治療といったサポートが不可欠だ。国はどこまでその責任を負うべきか。違憲訴訟は、障害者福祉制度が直面するそうした根本問題を見つめ直す契機になった。
厚生労働省によれば、支援法施行前後を比べると、障害者(身体、知的、子ども)の九割近くで毎月の負担額が平均八千五百円余り増えていた。さらに、五割以上で、福祉施設で働いて得た工賃が施設に支払う負担額を下回った。その差額は平均七千円余りに上ったというから深刻だ。
これでは障害者の自立を促すどころか、足を引っ張るようなものだ。障害者が司法の場に救いを求めたのもうなずける。
政権交代を受けて国は一月、支援法を撤廃して新しい福祉施策を導入することを違憲訴訟の原告らに約束した。その代わり、原告らは今月二十一日、東京地裁での和解を最後に訴訟を終結させる。
国は百七億円を手当てして、まずは低所得層の一割負担を本年度から停止した。だが、原告らが勝ち取ったといえる約束事全体から見れば当座しのぎにすぎない。
衣食住をはじめ、教育でも就労でも、大多数の健常者がつくり上げた社会の仕組みに合わせて生きることを、障害者は強いられてきた。実はそれが障害者が歩んできた歴史だった。
三年前に日本が調印した障害者権利条約は、そんな社会こそ変わるべきだとする。バリアフリーや手話通訳、点字翻訳、ガイドヘルパーなどの支援を社会が進んで提供するよう求めている。
国はそうした理念に基づく障害者福祉の仕組みを実現してほしい。政策論議には障害当事者も加わっている。絶好の機会だが、責任も重大だ。障害者が暮らしやすい社会は、健常者も暮らしやすいことを忘れてはならない。